六四天安門事件グラフティ〜中国人の友人に寄り添った体験から・前編

六四天安門事件とは、1989年6月4日に中国の首都北京で起こった、民主化を求める運動と、政府がそれを武力鎮圧した一連の事件を指す。当時、天安門広場とその周辺に結集していたデモ隊に対し、政府は部隊を出動させた。その結果、運動に参加した学生や市民に多数の犠牲者が出た。

私は大学の頃から中国と長くに渡ってつき合うことになったが、1989年6月、六四天安門事件(以下六四事件)に出会い、中国人の友人たちから、悲しみや悔しさを知らされ、大きな衝撃を受けた。その時はただ友人たちに寄り添って聞いているほかなかった。そしてあの事件から30周年を迎える今年、中国や日本の市民にとってデモクラシーとはなにか、振り返ってみたい。

 

当時の回想

当時、私は東京の大学に在学中で、1989年の夏休みに初めての中国旅行を計画し、旅費を工面するためアルバイトに励んでいた。6月4日に起こった事件は、その直後に日本のマスコミで大きく報道され、新聞やテレビを通じて事件の概要について知ることができた。しかし、民主化を求める運動と、それを武力鎮圧した事件の本質については理解ができていなかった。

事件から数日後、東京渋谷の山手教会で、在日中国人留学生の主催による六四事件の追悼集会が開かれた。筆者も友人の中国の留学生から誘われ、その集会に参加した。友人の留学生は北京出身だった。

教会の中に入ると、そこは多くの中国人で埋め尽くされていた。正確な人数は分からないが、追悼会に参加した人々の熱気がすぐに伝わってきたことは覚えている。さらに気がついたことは、参加者のほぼ全員が泣いていたことだった。一部の女子学生は嗚咽をこみ上げ、その場に崩れ落ちた。この異様な場面に、私は言いようの無いショックを受けた。ある種のカルチャーショックだった。今でも記憶に残っているが、北京で犠牲になった同胞のために涙を流す留学生たちの姿を見て、六四事件の本質が分かったような気がした。

6月7日は渋谷でデモ行進が行なわれ、東京山手教会で天安門犠牲者の追悼集会が行なわれた
サイト「六・四天安門事件30周年」より。
http://www.tiananmen1989.net/1989_tokyo/1989_tokyo_0607

その後大学を卒業し、仕事を通じて多くの中国人と知り合ったが、六四事件が話題にのぼることはそれほど多くなかったように思う。その中でも印象に残っているのは、ある北京の書店に勤める女性マネージャーから聞いた、「六四事件の犠牲者たちはまだ名誉回復がなされていない」という一言だった。彼女は事件当時北京にいて、「運動する学生たちと北京市民の間にある種の連帯感が生まれていた」と語った。それは、政治的な緊張感に近いものだったそうだ。北京市民の心情としては、学生に同情するものがほとんどだったし、それは今でも変わっていない。

私は、六四事件で犠牲になった学生たちと同じ世代であり、当時の事件そのものもリアルタイムで見てきた。同世代の学生の多くが民主化運動のために命を失ったこと、また、学生デモを武力鎮圧し事件を起こした中国共産党政府に対しても、複雑な気持ちを抱かざるを得ない。心情的には学生たちの民主化を支持するが、六四事件は、中国の置かれた状況、また歴史的な繋がりなど、さまざまな要因を絡めて見る必要があるのではないかと思う。

 

 六四事件の経過

民主化を求める学生デモが始まったのは、民主化を求める学生たちの理解者だった胡耀邦元総書記の死がきっかけだった。89年4月に死去した胡耀邦追悼のために市内で集会が開かれ、その参加者たちは、天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのデモを始めた。政治の民主化という要求を掲げた運動は、広場からその周辺に広がり、さらには上海等中国の大都市に広がっていった。当時の運動の参加者には、北京の学生以外にも、民主化に賛同した市民や、共産党員も含まれていた。

その後、中心の北京市には、5月19日になって中国共産党政府による戒厳令が発令された。改革派の趙紫陽や一部の知識人は学生に対して、デモの平和的な解散を促したが、学生たちの意見は強硬派が多数を占め、デモの続行を強行した。その結果、6月4日未明になり首都へ動員されていた解放軍の部隊によって、デモに対する武力鎮圧が開始されたのである。

1989年当時の中国で民主化要求が高まった背景として、いくつかの要因が考えられる。
1つは、ソ連の政治改革「ペレストロイカ」の影響である。1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、ソ連共産党による一党独裁の元で、言論や思想の自由に対する弾圧や、官僚の腐敗が進む状況を打開するべく、政治改革「ペレストロイカ」を表明し、国内政治の民主化を進めた。同じく共産党一党独裁下の中国でも、1986年5月に中共中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再度提唱し言論の自由化を推進、胡は開明派のリーダーとして人民の期待を集め、政治改革への支持が高まった。

しかし、この動きに対して、鄧小平や党内の長老派を中心とする保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線は、中国共産党政権の一党独裁を揺るがすものとして反発した。その後、保守派の巻き返しにより、胡は1987年1月の政治局拡大会議において保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。

六四事件での民主化要求のデモは、こうした流れを受けて、胡耀邦の死去を直接の契機として始められたのである。同じ共産国家ソ連の民主化への転換は、中国にも大きな影響を与えたものと考えられる。

もう1つは、経済的な要因である。中国は、四人組逮捕による文化大革命の終焉、それに続く鄧小平の復権という流れを受けて、70年代末から「改革・開放」という全く新しい政策が始まった。市場経済を目指した経済の自由化への動きである。しかし、それはあくまで中国共産党の一党独裁下での経済改革であった。改革・開放が進むにつれ、貧富の格差や官僚の腐敗という負改革の負の部分が現れ始め、80年代後半になると、経済の自由化に呼応した政治の民主化・自由化も求められるようになった。

改革・開放後にも、教育政策の充実を図るため多くの大学や学部が新設され、大量の卒業生が生み出された。しかし、国が卒業生の配属先を決める「分配」制度はまだ続けられており、新に起こった民営企業からは歓迎されていなかった。また、高収入の職場は、党幹部の姻戚関係によって独占されるといった弊害も多く、学生たちはこうした就職の問題も、政治改革によって解決すべきだと考えるようになった。

では、6月4日当日、武力鎮圧の具体的な状況はどのようであったのか。事件後、当事者の中共政府は事件の検証を全く行わず今日に至っている。そのため、事件当時の北京の状況や正確な犠牲者の数は不明なままである。

在北京海外メディアや、事件後海外に逃れた知識人の中には、事件当時の状況についての証言が残されている。解放軍の部隊が一方的に無抵抗の学生や市民を虐殺したというイメージがあるが、当事者の証言によれば、一部暴徒化した民衆により兵士が撲殺されたり、逃げ遅れた兵士を暴徒が捕まえ、ガソリンをかけて燃やすというに残虐行為も行われたようである。

天安門広場での虐殺はなく、少なくとも広場内では死傷者は出ていないという証言も複数ある。しかし、平和的に民主化を要求する学生たちに対し軍権を発動し、部隊による武力鎮圧を行なったという事実は否定されない。

六四事件の後、運動の指導的立場にあった、柴栄やウーアルカイシーなど学生リーダーたちは、いち早く国外へ逃亡した。また、中国国内における民主化運動は一気に下火となり、当局により国内に残留する運動家の逮捕、危険視される人物の監視などが続けられた。
(次回「六四事件30周年―台湾、香港では」につづく)

 

大学の頃から中国の文化や歴史に魅せられ中国を旅行したり、中国語を学び始める。1989年に六・四天安門事件に出会い、在日中国人留学生の友人の多くが嘆き、悲しみ、悔しさを噛み締めている姿に大きな衝撃を受ける。その後、中国と取引する商社に勤務する。趣味はジャズ鑑賞。

執筆者プロフィール

tsukada kazushige
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塚田和茂
大学の頃から中国の文化や歴史に魅せられ中国を旅行したり、中国語を学び始める。1989年に六・四天安門事件に出会い、在日中国人留学生の友人の多くが嘆き、悲しみ、悔しさを噛み締めている姿に大きな衝撃を受ける。その後、中国と取引する商社に勤務する。趣味はジャズ鑑賞。