本屋さんのつぶやき日記 第2回「いまを生きる森の人たち」 すずとも店長
中学生のころ、どの学科の教師だったか、「自分がネクラかネアカか、みんなの前で言って下さい」と生徒に尋ねた人がいました。今になれば、性格を把握したかったのだろうと思いますが、そのときは絶望的な気分でした。そのことに自覚はあったので、まさかネアカと言う訳にもいかず、「みなさんが判断してください」と言ってごまかした覚えがあります。ネクラが差別用語だとその教師は思わなかったのでしょうか?
と、言いながらネクラが悪いという前提を疑問なく受け入れているわけですが、本人の意思を超えて、日々そのことで絶望感にさいなまれている人たちもいるというのに、なぜ「ネクラ」や「陰気」「悲観的」なことは差別されるのでしょうか?
明るい方が良いのは当然と言われると困りますが……。そこには欧米や日本社会の価値観が表れているはずです。前向きな姿勢こそ社会の進歩に寄与するという社会的、経済的な要請でしょうか?
ところで、いま読んでいる本が、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克已著、亜紀書房)なのですが、そこに「反省しないプナン人」という見出しがあります。
プナンというのは、熱帯のボルネオ島で狩猟採集を主業とする民族です。今はマレーシアの行政の末端に組み入れられ、旧石器時代の生活を本当に維持しているとは言えないのですが、定住農耕民とは別の行動様式が今も生きています。
プナンにはそもそも「ない」ものが多く、たとえば薬指にあたる概念がない。理由は使わない指だから。
「反省」もしない。一般的に悪いと思われることをしても、けろっとしている。
著者が教えている学生さんのそのことに対する反応が面白い。うらやましいという意見から、それで良いのか、はたまた、本当は反省しているのではないか、という意見まで……
著者は示唆するに留めていますが、なんとなく結論めいたものかなと感じることに、ペナンには集団的、社会的に解決方法を模索することで、独りで思い悩むことがなく、個人的に責任を負わせられることがないから、個人に罪悪感もない。だからストレスもない。「うつ病や精神疾患」もないように見える、ということです。
そこには、反省の上に改善をして、より良い社会を目指す、発展的で直線的な時間感覚ではなくて、狩猟採集社会の循環的な時間感覚があります。「より良き未来のために過去を反省する」のではなくて、「今を生き」ているのです。その時々の状況に鑑みて、万事上手くいくこともあれば、そうでないこともある。「くよくよしても何も始まらないことをよく知っている」のです。日本社会でもこんな風に生きられれば幸せかもしれません。
とりあげた本
奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』亜紀書房,2018年
執筆者プロフィール
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すずとも店長/地方都市・某大手書店の店長。ウィスパーボイスで基本マイペース。
テンションに波がない安定したひと、と思いきや、意外に涙もろい(書店勤務L・談)